【映画紹介】ゲッベルスと私 1942年から終戦までの3年間ナチスの大臣ゲッベルスの秘書として冷酷な戦争犯罪者の側にいた女

20218年6月17日、
本日の映画紹介は、『ゲッベルスと私』です。

彼女(ブルンヒルデ・ポムゼル)は、第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代における最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物です。

彼女が自身の半生とナチス時代を証言した映画『ゲッベルスと私』が、2018年6月16日より岩波ホールで公開される。 早く観たいです。

歴史に証言を残した彼女は、映画の完成を見届けるように息を引き取った。享年106歳。一人で最後を迎えたのは、ミュンヘンの老人ホームだった。彼女は出来上がった「自分」の作品を見て、満足そうな表情を浮かべていたという。

https://www.sunny-film.com/a-german-life

この様な映画をなぜ、取り上げるのかと云えば、人間は、いくら善人ずらをしていても、善と悪について語ろうと、自分の命が係れば、何でもする、せざるを得なくなるという事です。

体制に逆らって死んでゆくのが「善」なのか、従って生き抜くことが「悪」なのか。。。

1.”悪の凡庸さ”

ドイツ出身の哲学者、思想家である「ハンナ・アーレント」は『エルサレムのアイヒマン』で戦後、アルゼンチンに逃れていた、ナチス政権下でホロコーストを指揮した「アイヒマン」をとっ捕まえて、裁判を行うが、「凶悪で残忍な人間に違いない」と思っていたが、そうでは無かったと言ってしまい、アメリカ社会から猛烈な批判を浴びました。 しかし、この批判は何を物語っているのか?

アイヒマンは、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張したのです。「ユダヤ人が憎かったのではない」と。。。

人間は、どんなに「善人」面をしても、思考を停止すると「悪」に染まることがあるという事です。 「スタンフォード監獄実験」、「ミルグラム実験」でも明らかです。

人は、条件が整えば、誰でもアイヒマンになり得るという事です。

ホロコーストについて「最後まで何も知らなかった」と語り、「私に罪はない」と断言した。

そして彼女は言う。罪があったとするならば、「私」ではなく「ドイツ国民」である。ナチスに政権を取らせたのは、ドイツ国民全員であり、「私」もその1人だったと。

ドイツ人に対して、一番言ってはいけない言葉で、賢いドイツ人なら、だれでもそう考える言葉の1つで、彼女は、ナチスに政権を取らせたのは、ドイツ国民全員であり、「私」もその1人だったと。

この辺の事情は、第一次世界大戦に敗けて、第二次世界大戦に突入していった歴史を調べれば、分かるでしょう。

 

2.何が言いたいかと云えば、

■「無知は罪悪なり」という言葉は、いつの時代も変わらないという事です。

思考停止した頭で、生活していると、気が付くと、だれも止められない状態になっていて、人類は、いつでも戦争を始めてしまうのです。

テレビやネットの記事を観て、世の中、知っているつもりでいる。

自分の半径5m以内の事しか気を配れない、1年に1冊の書籍も読まない「バカ共が多勢に無勢」の世の中では、善とか悪ではなく、常に、危険がはらんでいます。

なぜ、危険がはらんでいるかと云えば、世の中「バカ共が多勢に無勢」を占めているからです。悪い奴が危ないのではなく、悪い奴がのさばるのを「無知」が助長してしまうので危ないのです。

日本も、敗戦記念日が、近くなると、「戦争の悲惨さ」を語り継ごうとしますが、本当は違うでしょうと言いたい。

■愚かな「大衆」が、なぜ、戦争に巻き込まれるかを「語り継ぐ」べきなのです。

戦争の悲惨さを語り継ぐのではなく、戦争を起こさないよう、世の中の多勢に無勢のバカ共を少しでも減らす努力です。それができないから、同じことを繰り返すのですが、「無知は罪悪なり」という言葉の重みが無いのでしょう。

いざ戦争になれば、アイヒマン、ブルンヒルデ・ポムゼルと同じことする羽目になってしまうのです。

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